オリジナル小説「或る男の場合」10

 今回は陣野の回想シーンです。

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 真夏の昼下がり、その日千葉出版を訪れていた陣野は帰りに会社近くの喫茶店で暑さを凌いでいた。
 ここはかつて、OB訪問に来ていた千鶴と初対面の後に訪れた場所だった。
 今では完全禁煙となっていたが、何の問題もなく、陣野は腰を落ちつかせた。

 「仁さん!」

 アイスコーヒーをちびちびやっていると、入り口の方から自分の名前を呼ぶ声がした。それは非常に懐かしいものであった。
 驚いて顔を上げると、そこにいたのは紛れもなく千鶴だった。

 別れた時よりか幾分落ちついていて、若さは若干薄れていたものの幸福感に満ちていてその美しさは損なわれるどころかかえってより一層、その輝きを増していた。
 クーラーとアイスコーヒーですっかり冷え切った陣野の体は再び熱を帯びた。
 
 偶然の再会と千鶴の美しさに陣野がびっくりして思わず立ち上がると、彼女が席にやって来て確認も取らずに腰を降ろした。良く見ると、隣には可愛らしい女の子がいる。
 髪を三つ編みに結い、ノースリーブのワンピースに真っ白なサンダル姿で、はにかみながらもにこにことした顔が実に愛嬌のある子だった。

 「子どもか?」

 「えぇ」

 「お名前は?」

 「英真奈香です」

 「いくつ?」

 「8歳。でもね、もうすぐ9歳になるねん」

 「なるねん、やなくて、なります、でしょ?」

 「ちぃちゃんもすっかり関西弁だな」

 「あちらの言葉は感染力が強いのよ」

 「ママ、ちぃちゃん言うの?かわいらしいなー」

 「こちらはね、ママがお仕事してた時にとってもお世話になった、陣野さん」

 「こんにちは。その節はママが大変お世話になりまして、ありがとうございました」

 そう言うと真奈香は深々とお辞儀をした。

 「これはこれは、ご丁寧にどうも」

 陣野も真奈香に倣って頭を下げる。

 「おじさんもねぇ、ママにはとってもお世話になってたんだよー。色々と」

 「ちょっと、子どもに変なこと言わないでよね」

 そう言うと、千鶴は真奈香には気づかれないように、テーブルの下でこっそりと陣野の脛を蹴った。

 「いってぇ…」

 ピンヒールは十分凶器と言える。


 千鶴と真奈香はアイスコーヒーとミックスジュースを注文した。

 「真奈香ちゃん、ミックスジュース好きかい?」

 「うん、だーいすき。でもね、お店のよりママが作ってくれはった方がもっと好き」

 「そうなの?」

 「ママね、お料理めっちゃ上手やの」

 「へー、そうなんだ。意外だな…」

 事実、陣野と交際していた頃、千鶴はあまり料理が得意ではなかった。

 「ママの料理で、何が一番好き?」

 「えぇっと…ギョウザ!」

 「餃子…それねー、おじさんがママに教えてあげたやつだよ」

 昔、二人でよく餃子を作った。あんをこねるのも包むのも千鶴はぶきっちょで、陣野はよくなじったものだった。

 「このおじさんねー、見た目はこんなだけどお料理上手なんだよー」

 「見た目、関係ねぇだろーが!」

 「真奈ちゃん、おじさんのお料理も食べてみたい!」

 「じゃぁ、今度食べにおいで」

 「やったやったー」

 「あんな小汚い部屋、子ども上げれるハズないでしょ?安請け合いせんといて!」

 手で払う仕草をした拍子に、ブラウスの襟元から懐かしいものが顔を出した。

 「そのペンダント、つけててくれてんだ」

 「え?まぁね…」

 「このペンダント、ママのお気に入りなんよ」

 「へー、そうなの…」

 「もう、いらんこと言わんと!」

 「ママね、真奈香が大きくなったら服も靴も何でもくれるって。でも、これはダメなんやって…」

 「真奈ちゃん!」

 「ママ…」

 「何?」

 「トイレ…」

 「はよ行っといで」


 真奈香がトイレに立つと、二人は饒舌に話し始めた。お互い、言いたいことで体中溢れかえっていたのだ。
 だが、陣野はそれ以上、ペンダントについて触れることはなかった。もう十分だった。

 「こっちへはいつ?」

 「今日。英が講演でこっちに来てて。真奈香夏休みだから旅行も兼ねて。真奈香が『ママが働いていたところが見たい』って言うもんだから会社の前まで連れてって、それで」

 「何だよ、こっち来るんなら連絡くらいよこせよ」

 「なんで昔の男にそんなことしなきゃいけないの?そんな義理ないでしょ」

 「まぁ、それもそうだな」

 「ところで…タバコ、辞めたの?」

 「どうして?」

 「だって、匂いがしないもん。もしかして、お酒も?」

 「あぁ。お前が嫁いだその日から、酒もたばこも…女もやめた」

 「女は、相手してくれる人がいないだけでしょ?」

 「うるせぇ。お前、酒もたばこも嫌いだったろ?だから止めた」

 「ふーん。でも、タバコの香りがしない仁さん、魅力減だなぁ」

 「全く、女ってやつはどいつもこいつも勝手だなぁ…」

 「奥さんとは、相変わらず?」

 「いや、離れた。お前が結婚してしばらくして」

 「仁さんから?」

 「向こうから。再婚相手が出来たんだと。全く、おせぇってんだよなぁ」

 「でもたぶん…離婚してても私、仁さんとは結婚してなかったと思う」

 「だろうな。俺もそう思う」

 「仁さんとは、そういうんじゃないから」

 千鶴がそう言うと、陣野はポケットからチュッパチャップスを取り出し、舐め出した。

 「何それ?」

 「タバコの代わり。ほれ、棒がついてるからそれっぽいだろ?」

 「それっぽくなんかないわよ」

 「俺、昔からペロペロすんの好きなの」

 「それはよーく存じ上げております」

 「おじさん、あめちゃん好きなん?」

 いつの間にか真奈香がトイレから帰って来ていた。

 真奈香がテーブルに着くと、陣野はもう一本取り出して彼女に差し出した。

 「ありがとう」

 そういうと真奈香は早速包みを剥こうとするが、子どもにはなかなか難しそうで苦戦していた。見かねて千鶴が剥いてやる。

 「ねぇ、私には?」

 「欲しいのか?」

 「だって、一人だけ仲間はずれみたいじゃない」

 「お前、意外と子どもだよなー」

 「仁さんにだけは言われたくない!」

 陣野はさらに一本取り出して、包装紙を剥き、千鶴の口に、かつて嫌という程味わい尽くしたその口に、押し込んだ。

 少々奥まで入ったのか、千鶴が軽く、んっ、とむせ返る。

 「すまん、ちょっと入れ過ぎたか?」

 「ううん。らいようぶ」

 昔似たような会話をしたような気がする。
 無論、かつて千鶴をむせ返らせたものは飴玉のような素敵なものでは、ない。

 「あれ?陣野さんやありませんか!」

 聞き覚えのある男の声に陣野は不純な追憶をかき消した。

 「パパ!」

 そう言うと真奈香は英に勢いよく抱きついた。

 「英くん!」

 「案外早くに終わって、良かったわね」

 「こっちに来ることお知らせしてたん?」

 「ううん。全くの偶然」

 「へぇー!それはそれは…って、どうしたん?3人であめちゃんなんか舐めて」

 そう言うと、英は陣野の隣に腰を降ろした。

 「陣野さんがくれたの」

 「陣野さん、甘党でしたっけ?」

 「いや、禁煙中で…」

 「そうでしたか。でも、タバコ吸わない陣野さんって、陣野さんぽっくないですねぇ」

 「君までそんなこと言うのか?」

 「真奈香はタバコ吸わないおじさんの方が好き!」

 「ありがとう。優しいねぇ、真奈香ちゃんは。ところで英くん、ちょっと…痩せたんじゃない?」

 「忙しくってねぇ。自宅開業してからはさらに輪をかけて」

 「開業医か!すごいじゃないか…」

 「それが僕の夢やったんで」

 「そう言えば取材したときも、そう言ってたよね」

 「私も医療事務の資格取ってね、手伝ってるの。微力ながら」

 「ちぃちゃんが病院の事務?」

 そう言うと、陣野はヒヒヒと笑った。

 「何の笑いよ!」

 「微力やなんて、とんでもない!僕はママがいてなかったら、絶対開業できてへんって」

 そう言うと、英は千鶴の手を取り優しくなでた。

 「あら、そう?」

 「パパはね、すっごいお医者さんやの。“シロクマ先生”って呼ばれてるんよ」

 「ははは。かわいい名前だねー」

 「真奈ちゃん、このおじさんはね、パパとママを会わせてくれはった人」

 「その節はパパとママが大変お世話になりまして、ありがとうございました」

 「これはこれは、ご丁寧にどうも」

 「あなた、もうこんな時間」

 千鶴の“あなた”という呼びかけを聞いて、陣野は一瞬だけ胸が締め付けられる思いがした。

 「そうやね、ここからやとそろそろ行かないとね。陣野さん、ごめんなさい。これからレストランの予約を入れてるもので、この辺で失礼します」

 そう言うと、英は伝票を手に取った。

 「ここは俺が払うよ」

 「いえいえ、そういうわけには…」

 「幸せのお裾わけしてもらったお礼だよ。こんなに賑やかだったのは久しぶり。とっても楽しかったよ。かわいいお嬢ちゃんともお近づきになれたし」


 結局払いは陣野が済ませ、レストランへ向かうためタクシーへ乗り込んだ一家を姿が見えなくなるまで見送った。
 再び会うつもりも無かったが、まさかこれが今生の別れとなるとは、この時陣野は全く想像もしていなかった。


~続く~


あぁ、非情な筆者を許したまえよ…。