オリジナル小説「或る男の場合」15 (終)


  権藤は茫然と、新快速の4人掛けの向かいに座る中年女性の深紅のセーターの胸元につけられた過剰装飾なブローチを見るともなく見つめていた。

  京都にある尼寺からの帰りであった。
  そこへは春恵という尼僧を訪ねていた。俗名を川端椿という。

  彼女は権藤の姿を認めると、全て得心したかのように淡々と事の真相を語った。
  だが、権藤は結局、椿を逮捕しなかった。証拠は何もない。
  第一、そんなことをすれば警察が無実の人間を死刑に処してしまったことが世間に明るみになる。

  いや、そんなことはこの際どうでも良かった。あの男のことを思うと、検挙することなどできようはずもない。


  恐ろしい真相に行きついた後、気がつくと、男は最愛の人の終着地にいた。
  彼にできる償いは、禍々しい“記者”という生き方を捨て、みっともない姿で行き恥をさらしながら、自分のせいで不幸になった者たちへ祈りをささげ続けることだけだった。

  何故般若心経にしたのかわからない。そもそも般若心経の意味も実はよく知らない。
  いや、よくわからないからこそ、それにすがったのかもしれない。
 
 毎日『全て私が悪いのです。坂本さん親子、椿、英くん、真奈香ちゃん、そして…ちぃちゃん。本当に申し訳ありませんでした』などと心の中で反復することは耐えがたかったに違いない。
 償い、というのは建前で、本当のところは自分が救われたいだけなのかもしれない。

 こんな答えの出ない自問自答の堂々巡りの中で男は毎日読経を繰り返した。
 夜起きて読経をし、食い物金目の物を求めて徘徊し、夜が明けるとねぐらに戻って読経し、眠る。
 毎日が同じことの繰り返し。たまに近くの教会やらボランティアやらの施しがある他はほとんど他人と触れあうことはなかった。

 他の浮浪者も気味悪がって誰も近づいてこない。
 単調な毎日の連続。いや、一日の区切りすら感じられない、無限とも思える時間の連鎖。
 その苦行の中で、時折幸福な記憶が頭をもたげてはかぶりを振るってかき消した。
 心地よい心持に浸ってはいけない。そんな資格など無い。ただ辛さのみを感じて砂を噛むように生きねばならない。生き地獄に磔にならなければならない。

 眠りに落ちるとしかし、自制心が緩まった。
 そこでは依然として記者であったし、千鶴は彼の女のままだった。しかし、真奈香もちゃんといて、英の子どもだった。

 ―仁さん、いよいよお風呂入るのもめんどっちくなっちゃったの?お風呂沸かしたげるから入ろ?
 ―体、洗ってくれるんなら入ってもいいぜ。
 ―バカ。そういうことは取材先のお姉さんたちにでもしてもらいなさーい。
 ―だから俺ダメなんだよ。潔癖だから。
 ―は?潔癖が聞いて呆れるわよ。何日お風呂入ってないのよ、全く…。私は真奈香の世話で忙しいの!自分のことは自分でやれ、このクソおや…

 ハッと、目が覚める。駄目だ。こんな夢を見てはいけない。甘やかな世界に浸ってはいけない。

 こういうわけで、彼の眠りは浅かった。
 と言うよりも、寝ながら起きて、起きながら寝ていた。

 睡眠という区切りすら得られない無限の今を過ごしていた彼にとっては、その時点でこのような生活を始めてから世間一般で言うところのどのくらいの時間が立った頃か判然としなかった。

 が、時節はわかった。クリスマスだった。
 と、言っても25日付近かどうかも怪しい。

 近頃はどの行事であれ街は約1カ月程その雰囲気にのみ込まれる。
 クリスマスはその傾向が最も顕著だ。好むと好まざるとに関わらず人々は肌寒さを感じた頃辺りから浮かれた空気に付き合わされる。
 世捨て人の彼もまた然りであった。
 浮浪者にありがちな、持て余した時間を第三者が用済みにした新聞紙の熟読に費やす、ということも敢えて避けてきた彼には、いよいよ日付の感覚が曖昧だった。

 そのクリスマスともなんともつかない、浮足立ったある日のことだった。
 その日はやけに寒かった。
 だからやっぱり12月半頃は過ぎていたのかもしれない。

 大阪には珍しく、朝から雪が降っていた。
 少年時代、忌み嫌っていた雪だったが、この時の彼にとってそれは特別な白と化していた。
 思い出に浸ることはしない。頭では引き剥がしていたがその心は体感とは裏腹に温かかった。
 朝から降り続いた雪がすっかり積り固まり始めた頃、男はむくむくとねぐらから起き出し、読経を済ませ、浮かれた街へと彷徨う。
 そうしないと、凍え死んでしまうからだ。
 生への執着ではない。彼には死へ逃れることが許されてはいなかった。

 クリスマス一色の空気へ踏み込む前に般若心経を唱えるなんて、何とも滑稽だな、と浮浪者に堕ちてからは珍しく、一昔前の彼にありがちな斜に構えた感想を持ち、ふふっと声に出して笑った。
 無論、嘲笑いだったがいずれにせよ声に出して笑ったのはいつぶりだろうか?

 やはりこの浮足立った空気のせいだろうか?などと思いながら歩いていると、人混みの中に一人の女がこちらを向いて立っているのが見えた。
 その女が誰だか気がついた途端、街中から突如として人が消えた。まだ覚醒していないのかもしれない。だとすれば起きねば。死へ逃れてはいけない…。
 そう思いながら成す術もなくその場に立ち尽くしていると、その女が段々近づいてくる。目の前で立ち止まると、続けた。

 「仁さん、勝手に夢にしないでよ」

 「ちぃちゃん…」

 「これは現実よ」

 夢が夢を否定することはよくある。

 「じゃぁ、なんで急に誰もいなくなったのかって?そんな細かいことはどうでもいいじゃない」

 「でも、君は死者だろう?」

 「あなただって、生きていると言えるの?その状態で」

 確かに至極的を得た指摘だ。

 「もう、いいよ」

 「もう、いい、なんてこと無いんだよ。俺にはそんな余地は残されてないんだ」

 「誰も、仁さんのこと恨んでなんかない…坂本さんだって、自分の悲しみの矛先を仁さんに向けるしかなかった。本当は逆恨みだってこと、よくわかってたのよ」

 「聞いて来たようなこと言うな」

 「聞いて来たから言うのよ」

 為る程、どちらも向こう側の人間なのだ。あり得ない話ではない。元より、この状況が十分あり得ないのだ。

 「椿さんねぇ、出家して春恵と名乗って、京都のお寺にいるのよ。もちろん、許すことなんてできない。せめて、娘は…真奈香だけは見逃してやって欲しかった…。でもね、毎日、泣きながら私たちの為に読経している姿を見てるうちに、恨む気持ちなんて、もう、どっかへ忘れてきてしまったわ」

 二人で近くのベンチへ座る。

 「もちろん、あなたのことだって、恨んでない。真奈香も、英だって、みんなあなたのことが大好きなんだから。私たちが死んだのは、あなたのせいなんかじゃない。これが私たちの、宿縁だったのよ…」

 そう言うと、千鶴は男の胸元を触った。

 「形見のペンダント、つけててくれたんだ」

 「あぁ。こればっかりはどうも、手放せなくってな…」

 「ルビーの石言葉、知ってる?」

 「確か…」

 「純愛、情熱、それから…勇気」

 「勇気…」

 「さぁ、もう終わり。一緒に行こう!」

 「駄目だ。俺が逝くのはお前さんたちとは反対側だ」

 「仁さん、地獄があるのは現生だけ、なのよ。もう十分お勤めは果たしたわ」

 「だから、地獄にもう十分なんてのはないんだよ。無限の連なりこそが地獄なんだから…」

 俯く男を女が抱きしめる。

 「純愛…。私はあなたにたくさんの愛をもらったわ。だけどね…まだまだ足りない。私のことまだ愛してくれてるなら、わがまま聞いてよ。こんな仁さん見てるの、もう嫌だよ…。お願い、一緒に来て」

 男の左肩がじんわりと濡れていく。

 「ちぃちゃん…」

 「ほら、真奈香と約束したでしょ?料理作ってあげるって。一緒にギョウザパーティしよう!もちろん、英も一緒に。パパたくさん食べるから、大変よー」

 そう言った彼女の顔は先程とは打って変わって満面の笑みだった。男の決心に気がついたようだ。

 「そうか…しばらくぶりだからうまくできるかどうかわからんが…」

 「大丈夫、料理上手の美人妻がお手伝いしますわよ」

 「ありがとう。で、どこにいるんだよ、その“美人妻”とやらは」

 「ちょっと!どこに目をつけて…」

 言い終わらないうちに二人の唇が重なる。

 「ごめん。つい…悪いな」

 「ううん。ありがとう。でも、これっきりにしてね」

 「もちろん」

 どちらからともなく立ちあがり、歩いて行く。
 男の肉体を地獄に置き去りにして…。

 「料理の前に、お風呂だね?」

 「えー、死んでも風呂に入らないといけないのかよー」

 「嫌なら戻ってよ」

 「体、洗ってくれるんなら…入ってもいいぜ」

 「バカ。そういうことは取材先のお姉さんたちにでもしてもらいなさーい」

 「だから俺ダメなんだよ。潔癖だから」

 「は?潔癖が聞いて呆れるわよ。何日お風呂入ってないのよ、全く…。私は真奈香の世話で忙しいの!自分のことは自分でやれ、このクソおやじ!それに…」

 「お前は“美人妻”だったな」

 「わかればよろしい」

 「ところで美人妻さん。ちょっと、そこのホテル、寄ってかない?」

 「寄ってかない!」

 「はいはい」


 二人の姿が、いつの間にか元に戻った人波に溶け込んでいった。
 ベンチに残された抜けがらの胸元は、どこからともなく聞こえてくる鈴の音が如く、街の光を反射してきらきらと光っている。

 これが或る男、陣野仁の場合、である。

~完~