喧嘩の絶えない二人であったが、関係は至って良好で知らず知らずのうちに出会ってから十年近くが経過した。
千鶴はその日、いつものように陣野の部屋を訪れていた。
「また昼間から飲んでるの?」
「いいだろ?仕事はちゃんとこなせてんだから。日本くらいなもんだぞ。明るいうちに酒飲むな、なんて無粋なこと言う国は。フランスなんか昼食にワイン飲むのは当たり前なんだぜ?」
「お生憎様。ユー、アー、イン、ジャパン。ここは日本なの。郷に入れば郷ひろみ!」
「郷ひろみってお前、ほんとに20代か?」
「残念ながら、もう30になります」
「えー、もうそんなになるのか?あの先輩に怒鳴られてた女子大生が?」
「早いわよねー。今じゃ彼、私の部下よ。センス無くて全然使えないけど」
「ははは、ざまぁねぇな」
「全く」
「そう言えば、覚えてるか?俺たちの初めての『共同作業』、ゴーストやった姫野めの」
「えぇ、もちろん。でも、もう随分と見ないわねぇ」
「AV女優に転身したみたいだぜ」
「へー。って、何で知ってるの?もしかして買ってたりして」
「んなもん、買うかよー。サンプルをちょっと、見てみただけ」
「全く、いい年こいて何してんのよ…」
「いい年こいてって言うけどな、今やAV業界の一番の顧客は高齢層なんだぞ?」
「は?」
「高齢者をターゲットにした裏ビデオ業者も存在するくらいなんだから」
「裏ビデオ、ってことは違法動画?」
「あぁ。途端に記者の顔に変わったな」
「だって記者だもの。今度特集組んでも面白そうね。性的な記事載せると部数伸びるし、あくまで社会問題として硬い内容にすればウチの雑誌にも載せられる…うん、いいわ。今度編集長に提案してみる!」
「まぁ、仕事の話は置いといて。お前にちょっと見せたいもんがあるんだ」
そういうと陣野はベッドの山の中から一冊の雑誌を探し出し、あるページを広げて千鶴に差し出した。
「小児科の現状を取材したルポ。これ仁さんの記事でしょ?既読済みよ。私、仁さんの記事は全部読んでるから。風俗ルポも」
「この英信二って先生なー、めちゃくちゃいい奴なんだよー。まぁ、ちょっと太っちょで見た目は落ちるけど、仕事一筋、絵にかいたような真面目くん」
「へぇー、仁さんの真逆だねー」
「お前、一度会ってみる気、ないか?」
「あー、ダメダメ。私、医療系弱いんだぁ」
「そうじゃなくて」
そういうと陣野は千鶴が広げていた雑誌を閉じ、自分の方に顔を向かせて続けた。
「個人的に、会ってみる気はないか、って言ってるんだよ」
「どういう意味?」
陣野のいつにない真剣な表情に、千鶴は一瞬怯んだ。
「そろそろ、身を固めてもいい頃なんじゃないのか?」
「は?」
「俺が言うのもなんだが、このままズルズル続けて、先があると思うか?」
「そ、それは…」
「英くんと接するにつれて『この人にだったらお前を託せる』そう思うようになったんだよ」
「そんな…勝手だよ」
「勝手なこと言ってるのは百も承知だ。でもな、俺、ちぃちゃんには本当に幸せになって欲しいんだよ。俺にはそれができないが、英くんにならできる。長いこと記者やってて、人を見る目だけはある」
「な…」
「悪いこと言わない。一遍、会ってみるだけ会ってみてくれよ。な?」
「会ってみて、気に入らなかったら、嫌よ」
次の休みの日、千鶴は英と会うために東京駅近くのホテルの喫茶室を訪れた。
彼女が着いた時、まだ“見合相手”の姿はなく、窓辺の席に着くと外の景色を見るともなく見つめていた。
しばらくして、近くに気配を感じ見やるとそこにあの雑誌に載っていた男が立っていた。
陣野が言う通り、体格がよく優しそうな雰囲気を醸し出している。
「すみません、新幹線の到着が少し遅れてしまいまして…」
関西弁のイントネーションでそう言うと、ウェイターが水を持って来るなり、一息に飲み干した。そして、肌寒くなってきた時節だというのに汗びっしょりになった額をおしぼりで拭き回った。
「いえ、私も今着いたばかりですので、お気になさらずに。私のもお使いになられますか?」
そう言うと千鶴は自分のおしぼりを英に差し出した。
「あぁ、結構です結構です。この体でしょ?だから、少し動くとすぐ汗がね…すみません」
「いえ。代謝がいいのはいいことなんじゃないですか?」
「まぁ僕の場合、良すぎるんですけれど」
そう言うと、わははーっと豪快に笑った。
その顔は何とも愛嬌があって、まるでシロクマのようだった。
そして、陣野がしきりに彼を勧めた理由がなんとなくわかった気がした。
「お忙しいのにお時間作っていただいて、すみませんでした」
「いえいえ。もうね、陣野さんからあなたのお話を伺って、お写真も見せていただいて、もう、すぐにでもお会いしたかったんですよ。はぁー、でも写真よりもお美しい」
そう言うと元々細い英の目がより一層細まった。
「陣野さん、私の悪口言ってませんでした?」
「いえいえ。“奇跡的に売れ残ってるかわいい子がいるんだけど、会ってみない?”と」
「売れ残り…」
「あぁ、ほんとにすみません」
「いえ、悪いのはあなたではなくあのクソジジイなので…」
売れ残った原因に言われて、少々不愉快だった。だが、快活な英を前にすると不愉快なこともなんだか愉快なことのように思えてきた。
「どうだった?英くん。いい奴だったろ?」
その日の夜、千鶴は陣野と共にあの居酒屋を訪れていた。英の話が出て以来、千鶴が部屋を訪れることはなかった。
ホテルライクな服装の彼女は明らかに浮いている。
「最初こそお互いのことあれこれ話してたんだけど、その後はずっと小児科の話ばっかりで…『少子化の折、小児科医は減少していく一方だけど、僕は世界中に子どもがたった一人になったとしても、その子のために小児科医であり続けたい!』って。とってもいい人」
そういうと千鶴はうっとりと遠くを見つめた。
「英くんらしいな」
「あ!ところでさ、“売れ残り”ってどういうこと?」
「え?アイツ、そんなことまで言ったのかよ、全く…」
「ちょっと、あなたにだけは絶対言われたく無いんですけど!」
「嘘もつけないのか、奴は…」
「こらっ!なに英さんのせいにしてるの!」
「それはまぁ、“言葉のあや”つうかさぁ、話のとっかかりっつーか、ちょっとでもお前に興味を持って欲しいと、こう思ってだなぁ」
「もう、許さない!表出やがれ!」
「綺麗なお召し物に似つかわしくありませんでございますよーお嬢さま…昔の」
「今、『昔の』つったな?自分だってオジンじゃん!」
「そこまで言うなら、おう、表出てやろうじゃないか!」
二人は勢いのまま外へ出た。
そしてお互いが相手に引き寄せられるように抱き合い、熱い口づけを交わした。
しばらくして千鶴は、ただ「バイバイ」とだけ言って、夜の街へと消えて行った。
~続く~