英は大阪にある大学病院で勤務医として働いており、千鶴とはなかなか会えなかった。
二人が初めてデートしたのは“お見合い”から約3カ月後、千鶴が大阪を訪れた。
昼はミナミをぶらぶらし、新大阪へ引き返したのは夕刻を過ぎた頃だった。
「新幹線の時間までまだ少しあるし、観覧車乗る?」
「観覧車?」
二人は薄闇をバックに聳え立つ深紅の大車輪を見上げていた。
「大阪の駅前にこんなのがあったなんて…」
「だいぶ前にできたんやけどねー。全国的には知名度低いんかなー?」
「普通は、こんな感じなんですよねー」
段々小さくなっていく大阪の夜景を眺めながら、千鶴がもらした。
「え?」
「ううん」
彼女はまともなデートなど今までただの一度もしたことが無かったのだ。
「綺麗な夜景…」
「あなたの方がずっと綺麗や」
そう言うと、堪え兼ねたかのように英は千鶴を優しく包み込み、口づけた。
「ちづちゃん、好きや」
「私も」
千鶴の言葉に嘘は無かった。彼女は本当に英のことを愛していた。
ただそれは、恋い焦がれる、という類のものとは違っていた。
自分へひたむきに想いを寄せてくれる誠実な男を愛おしみ、慈しむというような情であった。
新大阪のプラットホームで英は結婚を前提に交際したい旨を千鶴に伝え、彼女もそれを快諾した。
「そうか…よかったな」
この日千鶴は原稿を取りに、久しぶりに陣野の部屋を訪問していた。
「でもね、最初は手もろくに繋ごうとしなくって。じれったくって、私から無理矢理繋いでやったわ」
「ははは。二人とも、らしいな」
「でもねー、そこがまた、たまらなくかわいくて…」
「確かに、くまさんみたいだもんな」
「そうそう。色が白いからシロクマさん、ねー」
「なぁ」
「何?」
「旅行、行かないか?」
「え?」
「結局どこにも連れてってやれず終いだったしなー」
「いいよ。シロクマさんに連れてってもらうから」
「でもお前のシロクマさん、忙しいんだろ?」
「まぁね。こっちに来るのもままならないくらいだから…」
「旅行って言っても、取材も兼ねて、なんだが…」
「何よ、それ。ついで感満載じゃない」
「仕方ねぇだろ。こちとらシロクマさんと違って、しがないルポライターなんだから」
「長かったもんねー、私たち。私の中ではもう終わってるんだけど…まぁ、前向きに検討しとくわ」
「いい返事待ってる」
その後も英は忙しい合間を縫って、休みの度に東京に出向いていた。
多忙なためその殆どが日帰りであったが、この日は東京での学会のために上京していたので珍しく一泊できた。
「ごめんね。ホテル代わりにさせてもろて」
こぢんまりとした女性の一人暮らしの部屋に、英は少々寸法が合わない様子だ。
「いいのよ。だって、フィアンセだもの」
「いい響きや…」
「あのね、話しておかないといけないことがあるの。実はね、私…あなたと知り合う直前まで、お付き合いしてた人があったの。それはね…」
「陣野さん、でしょ?」
「え?」
「僕が気づいていないとでも?」
「今はもう、何ともないのよ。今好きなのは、あなただけ。もう、忘れたの、あんな奴」
「無理して忘れんでも、いいよ」
そういうと英は千鶴を抱きしめた。
「無理なんか、してないよ」
「いや、忘れんといて欲しい」
「え?」
「君にとって、陣野さんと過ごした時間はとっても大事なものだったんやない?僕は君を丸ごと愛したい。だから、これからも大事にして」
「もう、なんでそんなに優しいのよ」
そう言うと、千鶴は英の胸の中で泣きだした。
「優しくなんかないよ。僕はただ、君と…陣野さんのことが好きなだけ」
「旅行?」
狭いベッドで深く愛し合った後、千鶴が切り出した。黙って行くような真似はしたくなかったのだった。
「取材旅行について来て欲しいって」
「取材、だけ?」
「もちろん、あなたが行くなと言えば、私行かないわよ、絶対!」
「ということは、本当は行きたいっていうこと?」
「あ…もちろん、あなたを裏切るような真似は、絶対にしないわ!」
「行っといで」
「え?」
「思う存分、愛されといで」
「信ちゃん…」
「最後にいい思い出作っといで。自分でも不思議や。こんな気持ちになれるやなんて…。でもね、君の望みは全部叶えてあげたい。もう、僕、ちづちゃんに参ってしもて…」
英に抱かれる間中、脳裏をよぎるのは陣野のことばかりだった。
頭の先から足の先まで陣野の記憶が刻み込まれたその体は、そう簡単に彼を忘れられるはずもなかった。千鶴はしばらくの間、英の好意に甘えることとした。
~続く~